エピソード

澤昭裕は、1981年(昭和56年)に通商産業省に入省してから退職するまでいろいろな部署を渡り歩きました。東京大学先端科学研究所で仕事をした後、アパレル会社、シンクタンクなど兼任して亡くなるまで様々な仕事をしてきました。その時々で一緒に仕事をしてきた方々から夫の仕事に対するスタンスや考え方、人との接し方などがよくわかるエピソードをよせていただきました。(敬称は略させていただきました)


  • 1995年以前

    藤末健三

    民進党参議院議員(元通商産業省 1986年(昭和61年)入省)

    ふじすえ健三公式ウェブサイトより転載)

    澤さんとの関係は、経済産業省(当時、通商産業省)でお世話をして頂いただけではなく、国会においても、国際環境経済研究所の所長または21世紀政策研究所研究主幹として政権時代の民主党のエネルギー政策に対し指導を頂き(当時、私は民主党の原発プロジェクトチームの事務局)、超党派の「自然エネルギー促進議員連盟」にもより現実的な自然エネルギーの普及策を教えて頂いていました(私が事務局を務めさせてもらっています)。心から感謝申し上げます。

    私が一番、澤さんの印象が最も深く残っているのは、「通産省で大失敗をした時に澤さんが私をかばってくれたこと」です。

    1993年に、私が環境政策課で働いている時に、当時は日米経済摩擦の真っ最中でした。確か日米構造協議をワシントンやっている中で、日米でぶつかり合うだけでなく、日米で前向きなこと、環境協力をやろうということになり、「日米環境技術協力協定」 を締結することになったのです。私は課長補佐としてこの協定の担当になりました。

    夜はワシントンDCにいる交渉担当者のサポート(アメリカは昼夜が日本と逆)、昼は外務省、環境庁(当時)や科学技術庁(当時)との調整と、一週間くらい役所に泊まりこみで働いていました。

    そして、やっと協定条文がセットされ、全省庁に連絡がされた時に、「大蔵省(当時)からこの協定の説明を受けていない。この協定は認められない」との連絡が来たのでした。大蔵省からは「予算に言及した条項があり、予算を所管する大蔵省に事前説明がないのはけしからん」ということでした。

    私は焦りました。条文は締結し、政府内の手続きを終えて、後は署名を行う段階まで来ていたのです。そして、交渉日程の期限も迫っていました。課長は大蔵省への対応、私は省内への対応を行うことになり、省内の関係者に大蔵省への説得を依頼して廻りましたが、ほとんどの関係者は冷ややかな対応でした(独立愚連隊の野武士集団の通産省らしいと言えばそうなのですが、「自分の失敗は自分で解決しろ」といった感じでした)。

    その中で官房総務課(役所全体の調整を行うところ)で法令審査(部局の筆頭課長補佐)をしていた澤さんだけが笑って「お前も大ポカするな~、大蔵省の関係者にはオレからもあたっておくよ」「兎に角、頑張って事態を収集しような」と、全く深刻にならず、笑って応援してくれたのです。

    徹夜続きで疲れ、省内でほとんど誰も助けてくれない中で、本当に澤さんの笑顔には救われました。

    数年前に食事をした時に、この話をしたら、澤さんは覚えておられず、ただ、私に対し「藤末は昔からとんでもないやつだったからな、そのくらいのポカはするだろうな」とまた笑ってくれました。


    澤さんは、役所を辞められてからもご自身の実家の仕事をされながら、日本を変えるための仕事もされていました。

    私もまだまだ力が足りませんが、是非とも澤さんのご意思を継がせて頂きます。

    特に澤さんが設計され作られた「経済産業研究所(RIETI)」を真のシンクタンクにすることを是非ともやりたいと思います。


    澤昭裕先輩、本当にありがとうございました。心から冥福をお祈り致します。


    北川慎介

    三井物産株式会社 常務執行役員 関西支社長

    (元中小企業庁長官 1981年(昭和56年)入省)

    私が澤さんと出会ったのは、昭和56年に通商産業省(現経済産業省)に同期として入省した時でした。澤さんは、一年生として当時最も忙しい課と言われていた資源エネルギー庁の総務課に配属されました。第二次石油危機のショックを乗り越え新しいエネルギー政策を模索していた時期であり、石油、石炭、電力、ガス、省エネ、鉱物資源、そして国会対応など、あらゆる話が集中する同課にあって、いつも愉快に、楽しそうに仕事をしていたことを覚えています。また、二年目には、明治時代からの難解な鉱業法の担当者となり、個別の入り組んだ事案を明解に捌いていたことに、まだ駆け出しで経済分析に携わっていた私などは心底驚いたものでした。その頃、中小企業政策を担当しておりました私に、忙しい合間に澤さんが御実家で経営されている会社を例に、中小企業について語ってくれたこともありました。

    その後は外務省への出向、米国留学など、広い視野をもつ若い行政官としてご活躍をされました。澤さんと私が、前任後任の関係となったこともありました。特に、1995年のAPEC大阪開催に当たっては、二人で長い間準備に当たりました。多数の各国首脳が集まる大会議で、大阪府や大阪市、大阪府警にも全面的な協力を頂きました。大阪出身の澤さんにとってはよくよくご存知の地元であり、いつも余裕をもっておられ、笑顔で「『一隅を照らす』ですよね」と明るい大阪ことばで言っていたことを思い出します。

    さらに要職を歴任され、次に私がお近くになったのは、澤さんが資源エネルギー庁資源燃料部の幹部となった時で、熟知していた石油や石炭、鉱物資源の行政に、澤さんは辣腕を振るわれました。

    澤さんは、環境政策や原子力政策に関する日本を代表する専門家でしたが、その裏付けとなる世界経済やエネルギー情勢、技術の動向について、極めて該博な知識と明晰な分析力、深い洞察力を持っておられました。そして、澤さんの素晴らしいところは、そうした難しい話を、やさしい語り口で、誰をも納得させる力でした。

    そうした偉業と同時に、私には、澤さんはいつも明るい天王寺の好青年という印象が今でも強くあります。若い頃一緒にゴルフに行って、私がトラブルから幸運にも偶然の好リカバリーショットを打つと、「ハハハ、北川らしいね」と笑って言ってくれたことをくっきりと思い出します。偉大な友の、あの大阪ことばを聞けないのが残念でなりません。


    有馬 純

    東京大学公共政策大学院教授(元通産省1982年(昭和57年)入省)

    (以下の文は2016年秋出版「精神論抜きの温暖化対策-パリ協定とその後」の「結びにかえて」から加筆修正したものです)

    福島原発事故以降、「脱原発をしたドイツを見習え。バスに乗り遅れるな」という議論を耳にするたびに、「ドイツ礼賛と精神論は昔の帝国陸軍と同じじゃないか」と思ったものだ。高い野心をかかげろという精神論や再エネだけで十分という盲信や周辺国とグリッドで結ばれたドイツを崇め奉る舶来信仰で国のエネルギー温暖化政策を進めるわけにはいかない、精神論抜きの、地に足の着いた政策論が必要だ、というのが筆者の切なる思いである。

    「精神論抜きで」というと「精神論抜きの電力入門」の著者であり、本年1月に逝去された澤昭裕さんのことが思い出される。思えば本書を執筆するきっかけは、「地球温暖化交渉の真実」でエネルギーフォーラム優秀賞をいただいたことであった。そして「地球温暖化交渉の真実」を書く機会を作って下さったのが澤さんであった。

    澤さんとの出会いは今から34年前、筆者が通産省資源エネルギー庁国際資源課に1年生で配属されたときに遡る。氏はその時、総務課の2年生事務官であった。入省直後の筆者は失敗ばかりで毎日のように叱られ、意気消沈することも多々あったが、澤さんはユーモラスな関西弁で緊張をときほぐしてくれる兄貴のような存在であった。19年後、筆者が京都議定書の細目交渉に参加している際、環境政策課長であった澤さんの薫陶を受けた。その頃から氏は京都議定書が温暖化防止の枠組みとして役に立たないものであり、ポスト京都議定書の枠組みはプレッジ&レビューを基礎としたボトムアップのものでなければならないと指摘されていた。更に7年後、筆者がポスト京都議定書交渉に首席交渉官で参加していた際、澤さんは既に経産省を退官しておられ、21世紀政策研究所研究主幹として国際交渉、国内対策について常に鋭い的確なアドバイスをいただいた。ロンドン在勤中もフェースブック等を通じてお付き合いが続き、ご自身が設立した国際環境経済研究所に交渉回顧録を書かせていただいた。帰国後、筆者が東京大学に行くことを知って「組織から離れても日本の足でしっかり立っていることは意外に大変なんだ。君ならできる。帰国を待っているよ。一緒にいっぱい仕事しよう」と言って下さり、筆者もそれを楽しみに帰国した。

    澤さんがすい臓がんで入院されたのはそれからわずかひと月後であった。しかし澤さんの精力的な論考は衰えることなく、COP21でパリに行っている間も、パリ協定について鋭い質問をいくつもいただいた。それからひと月もしないうちに帰らぬ人となってしまったことが未だに信じられない。筆者が今日、温暖化問題について人前で話したり、ものを書いたりするようになったのは、ひとえに澤さんのおかげであると言える。もっともっと謦咳に接したかったとの思いでいっぱいである。

    澤さんが一貫して主張してこられたボトムアップ型の枠組みがパリ協定という形で実現し、焦点が国内対策に移った今日、ご自身で論じたかった事、訴えたかった事は数え切れないほどあったであろう。浅学菲才の身であり、澤さんのような本質を突いた鋭い論考を展開することは能力に余るが、COP21から戻り、今日に至るまで国際枠組み、国内対策について考えてきたことを筆者なりにまとめたものとして、本書を大恩ある澤さんに捧げたい。


    中村伊知哉

    慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授(元郵政省)

    (ブログ「Ichiya Nakamura / 中村伊知哉 -■澤昭裕さんの思い出」より転載)

    エネルギー政策の第一人者、ぼくが尊敬する政策のプロ、澤昭裕さんが1月16日、膵臓癌で亡くなりました。

    冷静で現実的な政策を打ち出し続ける方でした。エネルギー政策の腰が定まらない我が国にとって、痛い損失です。ぼくも大きな指標を失います。

    wikipedia:澤昭裕

    澤さんが今年の正月「私の提言 ―総集編―」とするエネルギー政策総まとめを示し、しばし身を引くというので、ちょっと気になっていたんですが、まさかの出来事でした。

    澤さんの功績については、池田信夫さんのブログ「澤昭裕さんへの最後の手紙」や、

    石井孝明さんのVlog「澤昭裕さんを悼む」でも語られているとおりです。


    エネルギー政策についてぼくには語れるほどの知見がありませんが、澤さんとのことは記録しておきたい。


    ぼくが郵政省で「電気通信基盤充実法」の担当補佐として通産省と協議した1991年、カウンターパートとして現れたのが電子政策課の補佐、澤昭裕さんです。年次でいうとぼくの3つ上。霞が関での3つ違いは二等兵と伍長ないし軍曹の開きがあります。その威圧感たるや。

    通産・郵政戦争と呼ばれる縄張り争いが収まっていないころ。新法を作って通産省と折衝するというのは死地に赴く覚悟でして、ぼくはこの上なく緊張しました。

    澤さんをヘッドとし、片瀬裕文さん(現 通商政策局長)、宗像直子さん(現 総理大臣秘書官)ら強いメンバーを相手に夜を徹する折衝を二週間ほど続けるのですが、ぼくの事前の緊張など覚悟のうちに入らないと涙ながらに痛感させられるほど、それはそれは厳しく対応してもらいました。いやぁ厳しかった。

    折衝、協議、説得、調整を経て、最後はここが落とし所、という覚書を結んで両省は決着。最後に「オレってリーズナブルやろ。」と澤さんが見せられた人懐こい笑顔が忘れられません。

    仕事ってのは、こうするのか、ということを教えてもらいました。ぼくの血肉になりました。役人になって何年もたった後のことですが、これを経てぼくはようやくプロとしてやっていけるかもしれないという自信を得ました。


    その後、ぼくは3年連続で郵政省の法案を通産省と折衝する担当となりました。その間、澤さんは、コンピュータやソフト等に対する政府予算の道を開くため、戦時中の通産・郵政が休戦協定を結んで共同要求する作戦を立てられました。

    「両省で要求したら大蔵省も飲むで。」という話を持ちかけられた時は、ぼくとは水準の違うダイナミックな政策を作る人がいるもんだと改めて感心しました。郵政省内をどう調整したかは覚えていませんが、結果としてこの予算は実現。研究機関等へのデジタル投資が拡充しました。

    その予算の恩恵を受けることになる筑波大学の江崎玲於奈学長に呼ばれ、随分ホメられました。先生、勘違いです。ぼくの手柄じゃないんです。説明に難儀しました。


    1997年、ぼくは官房総務課の補佐として省庁再編を担当しました。橋本行革の省庁再編案として、郵政省解体が明記されることになりました。負け戦が確定しました。巻き返し策を練らなければなりません。

    省内の議論は3分されました。1)通産省に引き取ってもらい産業通信省になる。2)運輸省と合体して運輸通信省になる。3)総務省を作る案に乗って潜り込む。

    1)産業通信省は通信・放送行政を産業政策とするもの。2)運輸通信省はインフラ政策として逓信省の復活を目論むもの。3)総務省は産業・インフラなど全てを含む独立した行政領域と考えるものです。

    省内にとどまらず、自民党を含む大騒動になりました。当時の事務次官ら幹部は通産省に期待を寄せました。通産省は機能を強化して経産省となる勝ち戦が決定、気分はよくなっているだろう。とはいえ、通産省の意向は不明。おまえ極秘で探ってこいと指示されたぼくは、澤さんに聞きに行きました。

    「通信放送だけならもらうけど、郵政事業も連れてくるいうのは☓☓☓☓(某宗教団体の名前)を抱えるようなもの。絶対ムリ」と即答。そのまま郵政省幹部たちに伝えたところ「われわれは☓☓☓☓(某宗教団体の名前)か・・・」と絶句して、あきらめることになりました。

    結果、総務省に入ることで政治決着しました。今もその形には批判がありますが、当時の中のひとにとっては、最善の決着だったと思います。ぼく自身はそこで役所を辞めることになりましたけど。


    (ところで、解体される郵政省を総務省に移行させるための秘密チームをそのころ省内に作り、SMAPと名付けました。

    でも、SMAP=Strategy group of Ministry Anticipated for Post and telecomとかなんとかつけたのはボスに却下されました。Speed Message Action Power と変えたら承認されました。)


    役所を出てアメリカに行ってぶらぶらしていたぼくに、日本から声をかけてくれたのが経済産業研究所(RIETI)です。澤さんが研究部長として作られた組織です。青木昌彦所長、池田信夫さんらの誘いで、ぼくも上席研究員として参加することになりました。

    今にして思えば、経産省の組織に郵政出身のぼくを招き入れるのは、澤さんの腕力なくしてはムリだったんじゃないでしょうか。

    一方、澤さんは東大に転出して、政策研究とともに大学改革にも当たられます。その後、21世紀政策研究所やアジア太平洋研究所等で骨太のエネルギー政策を発信し続けられました。プロだなぁと思って眺めておりました。

    少し前、日米のIT企業がもめている案件の仲裁に入ってやってくれという依頼を受けたのが澤さんとの最後になりました。通産省人脈で来た仕事をぼくに振ってくるのも澤さんらしいや、と思って受けました。受けたら大変な話でしたw


    経済産業研究所で目指した「第二霞が関」の梁山泊構想は曲折あって道半ばです。また復活させんといかんよね、という澤さんとの話も途切れてしまいました。

    政策屋としてぼくは足元にも及びません。まだ目標にし続けます。澤昭裕さん、ありがとうございました。合掌。


    住田 孝之

    経済産業省 商務流通保安審議官

    私が情報処理振興課に振興班長として着任したのが1989年6月。その2カ月ほど後に澤さんが総括班長に着任されました。その後1991年6月までの約2年、澤さんと一緒に仕事をさせていただきました。時代はバブルの絶頂期。世界では、ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦構造という戦後の世界秩序が大転換期を迎えていた頃、そして、おそらく日本が一番調子がよかった頃です。

    情報処理振興課が所管していたソフトウエア産業は、中堅・中小企業でバブル経済の影響を最も強く受けた産業で、実に華やかで、活気に満ちあふれていました。そんな中で、情報処理振興課も澤さんのおかげもあって、明るく、かつ、大胆に仕事をし、一方ではお酒を飲んだり、テニスをしたり、プールで泳いだり、ゴルフに行ったりと、メリハリの利いたとても仲のよい、互いの信頼関係にあふれた集団でした。

    この2年間で澤さんと一緒にさせていただいた一番印象深い仕事は、通称「S研」という研究会で、バブル最盛期で一点の曇りも見えないような当時のソフトウエア業界に、このままでは持続できない、先を見た有意義な投資、人材育成、技術の蓄積を行わなけれは、バタバタつぶれかねないという警鐘を鳴らす報告書をまとめたことです。この研究会、澤さんのお考えでメンバー選定の段階から、肩書などではなく、自分達の目で見て、話をした上で、「この人は」、と思える人をメンバーにしようということになり、手分けして方々走りまわって会を発足。委員長はアルゴ21の佐藤さんにお願いしました。

    S研のSは、ソフトウエアなのか、澤なのか、佐藤なのか、住田なのかわかりませんが、それらをイメージしたものです。辛辣な報告書で、業界からは当初大きな反発もありましたが、澤さんと佐藤さんのよいコンビで、1991年のはじめにまとめあげました。

    1989年には、地域ソフト法の各省協議の際に、共管省庁である労働省(当時)への連絡を私が怠っていたことに関し、着任早々の澤さんにお詫びに行っていただいたこともありました。何の文句も言わず、私のことを責めることもせず、頭をさげていただいたことは、感謝とともに、尊敬すべきものでもあり、以後の仕事への取り組み方、部下との信頼関係の形成における大きな教訓となりました。

    1989年末から1990年初にかけては、郵政省(当時)との権限争議に多くのエネルギーを投じました。上記の地域ソフト法とそっくりの法律を通信分野に関して郵政省が1990年の通常国会に提出することになり、大蔵省(当時)に働き掛けて、同じような法律を作って、双方の権限関係に支障が生じるを避けるため、折衝を続け、実際の法律の協議の段階でも、様々な修正提案をしたものです。その過程では、郵政省からの重要な電話をみんなで深夜まで待っていたときに電話が鳴り、待ってましたとばかりに澤さんが取った電話が、何と私あての私用の電話で、みんながガックリしたことがありました。そんな時にも、笑い飛ばしてくれた澤さんの心の広さは強く印象に残っています。

    そのほか、これは、私の担当ではありませんでしたが、ソフトウエアの独自のOSやハードを日本で作ろうというΣプロジェクトやトロンのプロジェクトでも澤さんは、方々に走り回って、持ち前の愛嬌を発揮して難しい調整をしておられました。

    林良造課長、中村薫課長とも、大変良い関係で、実に楽しい2年間を過ごさせていただきました。


    大野 泉

    政策研究大学院大学

    澤さんとは、1985~87年に米国プリンストン大学のウッドロー・ウイルソン・スクール(WWS)の同期として、留学時代を一緒に過ごさせていただきました。私は途上国への開発協力を行う国際協力事業団(JICA)の長期研修生として、澤さんは通産省から留学制度でプリンストンに来ていました。帰国子女でない私にとって、米国の大学院での勉強は英語・内容ともに追いついていくのが大変で、毎日、プレッシャーの中で過ごしていました。そんな中、澤さんは、初めての留学にもかかわらず、(関西弁なまりの英語で)おじけずに意見を述べ、クラスメートと自由闊達に交流していました。世界を知っているというのでしょうか、広い視野で国際経済関係について議論をかわし、本当にさすがだと思ったものでした。(WWS時代、澤さんは時々、留学生仲間を自宅に招いてくれました。プレッシャーにあえぐ私にとって、伊津美さんの手料理と皆との会話がどんなに楽しいひと時だったか、本当に感謝しています!)


    当時、日本は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれるほどの経済大国になり、世界で存在感を高めていました。一方、レーガン政権下、米国経済は双子の赤字(財政・貿易)で苦しんでいました。日米関係をみると、日本製品の輸出増で米国は巨額の対日貿易赤字を計上、自動車や農産物分野で経済摩擦が深刻化していました。円高ドル安を誘導した「プラザ合意」(1985年)や、日本の内需拡大や市場開放策を打ち出した「前川レポート」(1986年)の背景には、こうした事情がありました。したがって、WWSにおいて通産省の政策は大きな関心を集め、先生・学生から様々な質問が寄せられましたが、澤さんがこれらを受けて立ち、日本の立場を堂々と、積極的に発信していたのを覚えています。


    米国では今年(2017年)1月にトランプ政権が発足、保護主義的な施策を次々と打ち出しています。日本との自動車貿易を不公平と一方的に決めつけ、かつての経済摩擦が再燃しかねない雰囲気すらあります。今、澤さんが経産省の高官あるいは政府・官邸などで陣頭指揮をとる立場におられたら、米国をいさめ、正論を戦わせて気勢をあげていたと思います。気候変動・環境問題においても然り。私たちは、澤さんの分まで、日本、そして世界のために正論をしっかり発信していかねばなりません。

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