エピソード

澤昭裕は、1981年(昭和56年)に通商産業省に入省してから退職するまでいろいろな部署を渡り歩きました。東京大学先端科学研究所で仕事をした後、アパレル会社、シンクタンクなど兼任して亡くなるまで様々な仕事をしてきました。その時々で一緒に仕事をしてきた方々から夫の仕事に対するスタンスや考え方、人との接し方などがよくわかるエピソードをよせていただきました。(敬称は略させていただきました)


  • 2001~2005

    井上貴至

    長崎県長島町副町長(東大澤ゼミ生 総務省)

    「地域づくりは楽しい」より転載)

    1月24日追悼・澤昭裕先生(僕が官僚になるきっかけを与えてくれた恩師)

    恩師の澤昭裕(さわあきひろ)先生が、58歳の若さで先週亡くなられた。 

    澤先生は、元経済産業省の官僚。京都議定書を締結した時(2001年)の環境政策課長。退職後も、特にエネルギー政策について、冷静で現実的な政策を提言し続けてこられた。

    僕が東大に入学した2004年からは、東大先端科学技術研究センター教授に転身。政策研究とともに、総長補佐として大学改革にも熱心に取り組まれていた。

    僕が澤先生に教わったのは、大学2年生のとき。商店街の振興について、実地で考えるとともに、座学で行政学や組織論を学んだ。ドラッカーやA.Oハーシュマンを初めて読んだのも、澤ゼミだ。

    そして、東大生とはいえ、まだテレビの中でしか知らなかった官僚の魅力・政策立案のダイナミズムについて熱く語っていただいた。澤先生と出会って、「官僚は、面白そう!」と、初めて思った。

    澤先生から教わったことは、10年経った今も、実務で試行錯誤する中で、反芻することが少なくない。例えば、商店街の構造。「商店街とは、ヨコの組織。それぞれの店主が独立したオーナー。商店街の振興組合の会長が「やるぞ!」と言ってもなかなか動かない。タテの組織とは違う動かし方が重要。」本質を捉えた澤先生の言葉は、まさに時を超える。

    同じ大阪市出身・同じ官僚の道に進んだこともあり、ゼミが終わった後もよく可愛がっていただいた。最近はなかなかお会いすることができなかったが、もっともっと澤先生から学びたかった。

    心からご冥福をお祈り申し上げたい。


    山本隆三

    国際環境経済研究所所長、常葉大学経営学部教授

    (国際環境経済研究所 山本隆三ブログ「エネルギーの常識を疑う」2016/02/26【澤さんと国際環境経済研究所】より転載)

    私が澤 昭裕さんと初めてお会いしたのは、十数年前澤さんが経済産業省の環境政策課長、私がまだ住友商事で地球環境部長を務めていた時だった。当時、住友商事は京都議定書に基づく温室効果ガス削減事業に注力しており、インド、中国、ウクライナなど多くの国でCDM、JIと呼ばれるプロジェクトに関与していた。その過程で政府関係者との打ち合わせもあり、時々経済産業省にお邪魔していた。当時の澤さんはいつも忙しく、かなり怖い顔つきで仕事をされていた印象が残っている。

    その後、澤さんは東大に出向の形で移られた。澤さんからは、大学改革が本来の仕事とお聞きした記憶があるが、環境問題にも関心を持ち続けておられた。時々東大で温暖化に関するシンポジウムを開催され、私も呼んで戴いていた。当時の住友商事は日本初、世界で3番目のCDM事業を国連で登録することに成功し、排出削減事業に係る話があるシンポジウムには、事業者として結構呼んで戴いていた。

    澤さんは東大から戻られた後経済産業省を辞められ、ご実家の大阪のアパレル事業会社を継がれることになった。この時に、澤さんからは会社に係る様々な問題に時間を取られるので、他の仕事を手掛けるのは時間の制約からかなり難しいとお聞きしたが、結局、日本経団連の21世紀政策研究所のお仕事もされることになった。

    21世紀研の理事長を住友商事の宮原会長(当時)がされていたことから、私も澤さんと一緒に21世紀研で温暖化問題研究のプロジェクトに携わることになった。その後、私は住友商事を中途で退職し、大阪の大学に教員として勤めることを決めた。大阪の大学に移って間もなく、澤さんから連絡があった。内容は「関西経済連合会が、シンクタンク、研究所の設立を計画しており、それを手伝うことになった。その研究所のプロジェクトに携わって欲しい」とのことだったので、私も後にアジア太平洋研究所として設立される研究所の試行事業に携わることになった。

    私は、その後大学を変わり、静岡県の常葉大学で教鞭を取ることになったが、大阪のアジア太平洋研発足後には澤さんと一緒に研究プロジェクトを進めることになった。特に昨年度は関西地区のインフラ強靭化に関するプロジェクトのリーダーを共同で務めることになった。

    澤さんからは、さらに新しく温暖化・環境問題に関する言論の場を作りたいので参加して欲しいと声が掛かり、本国際環境経済研究所の設立にも他の何人かの方と一緒に携わることになった。

    澤さんは、21世紀研、アジア太平洋研、国際環境経済研究所、全てにおいて責任あるお立場で研究所を牽引されておられた。また、研究に係ることは無論のこと、管理的な事項にまで踏み込まれ問題点を鋭く指摘されるのも常だった。東日本大震災以降は、環境問題に加え、エネルギー問題に関する発信も行うことになり、商社時代、環境問題に係る前の仕事としてエネルギー資源開発・輸入に長く携わった私にも、本研究所のホームページ用に原稿を書く頻度を増やすように澤さんから、ちょくちょく指示がくるようになった。

    昨年9月に体調を崩されてからは、澤さんが引き受けられていた講演をスケジュールが許す範囲内で、代わりにいくつか行うことになった。また、澤さんは体調が悪い中でも、学会のシンポジウムなどの代役に関する丁重なメールを関係者に発信されていた。残りの時間が短い中でも周りへの気配りを忘れない姿勢は、私にはとても真似できるものではなく頭が下がる思いだった。

    澤さんが本研究所を設立されたのは、企業で環境問題に携わっておられた方を中心に、環境・気候変動・エネルギー問題に関する意見を自由に発信する場が必要とのお考えからだったからだと理解している。小谷新理事長、理事、研究員の方と共に澤さんの遺志を継ぎ、本研究所の論考をお読みいただいた方に「役に立った。問題の論点がわかった」と思って戴けるような発信を続けたいと考えている。

    多くの方にお読みいただけるような発信の方法を、研究所のメンバーで今考えているところなので、さらに広く発信できるような体制を整え、併せて論考の内容もさらにブラッシュアップしていきたい。研究所への引き続きのご支援を賜れば幸甚だ。

     

    (山本隆三facebook2016/01/17より転載)

    昨日澤日澤先生のご葬儀が行われました。私はFacebookを時々の書き込みに使うだけで、他の方の書き込みを見ることは稀なのですが、澤さんには、いつもシェア、いいねを直ぐにして戴いていました。

    澤さんと初めて会ったのは、十数年前彼が経産省の環境政策課長、私が住友商事の地球環境部長の時でした。澤さんの最初の印象は怖かったです。その後、澤さんの東大時代にも地球環境問題でお付き合いが続き、21世紀研の当時の理事長を住友商事の会長が務めていたことから、21世紀研、私が大阪の大学に移ってからはアジア太平洋研、さらに国際環境経済研究所と殆ど同じ仕事、研究を十数年ともにしてきました。企業人から研究者に変わるなかで、お付き合いが継続した数少ない方のお一人です。

    いま、この書き込みを常磐線の電車のなかで書いていますが、澤さんが以前にお約束されていた講演を私が代わりに行うことになったもので、最後までお付き合いが続く気がします。澤さんは覚悟をされておられましたが、最後まで原稿を書かれていました。遺稿は来月20日発売の「ウエッジ」3月号に掲載予定です。ぜひお読みください。2月号には私の「温暖化交渉の本音と建前 国益かけた舞台裏」が掲載されています。澤さんの文章とは比べようもありませんが、お読みください。

    澤さんは最後の言葉を用意されており「ほなまたね」でした。この書き込みにもいいねをしてもらえそうな気がします。ご冥福をこころよりお祈りします。


    関総一郎

    元経済産業省環境政策課地球環境対策室長

    澤さんが環境政策課長に着任された時期(2001年の確か4月頃)は、97年に合意された京都議定書の発効に向けて、その運用細則の国連でのCOPの交渉がヤマ場を迎え、その中で我が国の主張をどれだけ通せるかが問われ、そして我が国は議定書を批准するのかどうかの判断を迫られる難しい時期に差し掛かっていた。澤さんは就任直後から、我が国の交渉戦略のあり方と、温暖化対策のあり方を巡り、政府の意見集約、産業界への説明などに奔走された。その過程での澤課長のスタイルは、論点をクリアにし、お互いの立場の違いをあえて際立たせながら、議論を活性化させるというもの。マイルドな言葉を選んで落としどころを初めから探るようなソフトなスタイルとは対極のアプローチだ。そして、組織として次にとるべきアクションや段取りを戦略的にデザインしていく。そして部下への指示は、極めて明瞭で、かつ簡潔だった。

    京都議定書の運用細則は2001年11月のCOP7において合意され、我が国は議定書を批准した。その直後、澤課長は「京都議定書の次の枠組を見据えて、そこへ向けた議論をどう立ち上げるか、考えよう。」という次なるアクションを打ち出した。批准したばかりの京都議定書の「次」を見据えるとは、何とも長期的かつ大胆な視点である。当時は、「米国を除く先進国しか参加しない京都議定書は温暖化防止には実は力不足で、それに代わる新たな包括的枠組が必要だ」といくら説いても、世の中からはなかなか耳を貸してもらえない地合であった。我が国外交の輝かしい成果だとされていた京都議定書に実は問題があると主張したり、「ポスト京都議定書」という言葉を口にすること自体が、かなりの勇気を要する、そんな雰囲気ですらあった。しかし、澤課長は、米国が参加せず、当時既に排出量を急増させていた途上国も削減義務を負わないような枠組の固定化をいかに防ぐかという点に強烈な熱意をもっていた。

    そうして産業構造審議会の地球環境小委員会において、地球温暖化対策のために真に望ましい枠組のあり方に関する検討が開始され、2003年7月に中間とりまとめが出された。そして翌年、澤課長と私の共編で、「地球温暖化問題の再検証」という本が東洋経済新報社から発行された。いずれも「次の」枠組に盛り込まれるべき視点を提示した、そして京都議定書は持続可能な根本的解決策とはなりえないことを説いた、当時としては大胆な内容だ。

    こうした仕掛けから始まった議論の積み重ねが、今日のパリ協定に結びついている。「アジェンダの設定」を得意とする澤課長の真骨頂だ。

    「アジェンダの設定」という作業の中で澤課長から学んだのは、幅広い関係者を巻き込んでいくことの重要性だ。澤課長は、議論の「場」、「土俵」を広く設定し、一部のプロフェッショナル」に閉じた議論に終始するのではなく、これまで当該アジェンダに必ずしも関心がないものの、潜在的には議論への貢献が期待できる人をできるだけ多く「巻き込む」ことを重視していた。おそらくこのアプローチは、大学改革など、澤課長が手がけられた他のアジェンダ設定でも用いられた手法であろう。

    特に「環境政策」というと、その道のプロだけが頭を巡らせるべき課題であるかに受け取られがちであったところ、澤課長は、実は温暖化対策は環境対策であると同時に経済政策そのものであり、かつそれを巡る国際交渉は、高度な経済外交であるという認識を世の中に浸透させようとしていた。そのためには、経済学、国際政治学などの分野の研究者にもウイングを広げてアプローチをする必要があるということで、澤課長と私は何人もの研究者の方々のオフィスに足を運んだ。

    澤課長が、「温暖化対策とは、実は、経済、産業全般のあり方、貿易のあり方にも直結する国家戦略であり、それを巡る国際交渉は、国の経済基盤を巡る厳しいせめぎ合いなのです」と説きながら、それぞれの研究者の専門領域と地球温暖化問題とは実は接点がありうることを熱く説いておられた。最初は「地球温暖化問題ねえ。これまで私はあまり関心を持っていませんが。」という方々から、次第に関心を引き出して、最後にはこの問題に関わる発信をしていただくというところまでこぎ着けるというプロセスを何度も目の当たりにしたものだ。

    「地球温暖化問題の再検証」(東洋経済新報社)を企画する際もこのような手順をたくさんたくさん繰り返した。澤課長は既にいくつかの著書を持っておられたが、私にとっては本を出すというのは初めての経験だ。本の企画に参加していただける方を求めて澤課長と都内をずいぶんと歩き回った。そのプロセスも終わりに近づいた頃、澤課長が私に「どう、こういうプロセスも面白いやろ。」とおっしゃり、私が「そうですね、最初は何も形がなかったところに、だんだんとパーツができてきて、なんかプラモデルを作っているようですね」と珍妙に(?)答えたら、澤課長は楽しそうに笑っておられた。澤課長のおかげで、世の中に本を出すという得がたい経験をすることができた。たぶん私にとってはこれが唯一の著書になるだろう。

    「地球温暖化問題の再検証」を作る最終段階、校正も済んだ後、澤課長が私に「東洋経済の編集担当の人が電話してきてさ、「はじめに」が必要なんだってさ。関君、おしゃれなやつ、書いといてよ。」とのご指示。いったい何を書けば「おしゃれな」なのか、しばらくううんと考え込んでしまったが、腕組みして考えるうちに澤課長が求めるものがそこはかとなく見えてきた。「おしゃれな」という、相手の意表をついた、独特の表現をまず投げつけて、相手にしっかりと考えさせるところも澤さんらしい。これも懐かしい思い出だ。


    末森洋紀

    経済産業省製造産業局航空機武器宇宙産業課企画官

    澤さんには、2001年から2002年に掛けて、小職が旧通産省に入省して間もない頃に薫陶を受けた。澤さんは環境政策課長であり、小職は課の末席として右も左も分からぬまま朝から明け方まで課内の細々とした案件やCOP7前後の国内温暖化対策について取組んでいた時期であった。課全体が忙しい中、この課には緑が必要だと言って、澤さんが大きな鉢植えを課内に持ち込まれていた際は、はぁ、としか思えなかったのだが、今となれば、その示唆することは多岐に亘ったのではないかと思い至る。また、小職が国会答弁の資料作成でかなり大きなミスをした際は、頭ごなしに怒るのではなく、なぜミスをしたのか、その理由を自省させ抑えるべき要点を示された上で、入省2年目の小職へ適切な指導に時間を割いてくださったことを思い起す。

    当時の私は正直なところ、まだ澤さんの偉大さを理解できていなかった。環境政策課での職務を離れた後、生前の澤さんとは何度も接する機会があり、その毎に、入省してすぐというよりも、もっと小職が経験を積んでからの方が学べることも多かっただろうな、その時に仕事をご一緒させていただきたかったと感じていた。会う度に温和でかつ厳しさを秘めた語り口に、小職は常に魅了され、少しでも澤さんの考え方を学び取りたいと考えていた。

    最後にお会いしたのは、平成27年8月の終わりだった。当時、小職が出向している組織向けにエネルギー政策の概要を語っていただきたいとお願いし、クローズドで講演会を開催した。その講演内容及び質疑応答は示唆に富むものであり、その組織においても極めて有益であったと信じている。質疑応答の終了後、参加者に対して、小職のことを「こいつは入省したときは、どうなっちゃうかなと思ったけど、まぁ何とかモノになっているので安心しましたわ」とお話され、汗顔の至りであった。澤さん、今でもモノになってはいないですが、少しでも澤さんの部下であったことに恥じない仕事ができるよう精進します。


    廣瀬浩三

    経済産業省2008年入省(東大澤ゼミ生)

    先生に出会ったのは、亡くなられた10年以上も前になります。私が学生時代に仲間とともにやっていた政策立案コンテストに審査員の一人としてお越しいただきました。コンテストが終わった後、偶然他の機会にお会いし、その際に、「政策立案のイベントっていうのであまり期待せずに行ったけど、学生のプレゼンと態度は立派だったね。でも、本当の政策の難しさはその先にあるのだけどね。」と言われて、カチンと来たのが最初の2人での接触。。

    それを縁に、当時、大学改革を現場で実現するため、私の大学に出向できておられた先生が、「パブリックのために働く人間を育てたい」と考え作られたゼミに参加し、その後2年お世話になりました。当初は、先生の鼻を明かしてやろうとどこかで思っていたのですが、実際には学ばされることばかり。北本市という埼玉県のベッドタウンに直接政策提言を行く機会を与えてくださり、その他にもNPOの方や数人の役人の中でもとびきり優秀かつ人格的にも優れた方に多数引き合わせていただきました。。

    北本市への提言の際に特に印象に残った言葉は、「頭でっかちになってプランを作る、意見を言うだけやったら誰にだってできるんやで。」「現場ほんまに見にいったん?」そういわれて、昼間のベッドタウンを8時間ぐらい自転車でチーム3人ぐるぐる回りながら、何がこの町のためにできるだろうという機会をもらいました。この政策づくりの経験は、僕の今の原点になっています。。

    それだけでなく、ちょうど大学の仕事を終え、実家の会社を継がれたころだったと思いますが、似たようなバックグラウンドを持つ私の人生相談に何度か乗っていただきました。私が経済産業省を自分の職場に選んだのも、いわゆる世の中でいうところの「お役人」、そして実際に周囲に存在する「ダメな理由が先に出る」「口だけ」「偉そう」「いざとなったら逃げる」タイプの大人ではない、先生や先生が引き合わせてくれた経済産業省の役人を見たからこそ。。

    入省が決まった際、それまで縁もゆかりもなかったエネルギー政策の部署に配属になり、やや弱気になっている中、メールでご挨拶さしあげた際に、「自分も入省したとき、そこやったわ。勉強になるポストだし、課長もものすごいいい人や。恵まれたね。まあ、必死でもがきなよ」と励ましの言葉をいただいたこと、その陰で、何人かの方に「あいつ教え子なんでよろしく頼みます」と言ってくださっていたそうです。。

    思えば、その後も1年に1回ぐらいお会いするたびに、失敗ばかりの自分は励まされました。特に震災後は、エネルギー政策の観点で、世の中の空気にくみせず、テレビで自らの信ずる正論を貫かれていました。当時私はある法案作りに携わっており、震災後、政治の影響で大幅に修正され成立し、あんな法案を世に出してしまったと悲観していたころに偶然再会し、「あれは天下の悪法になったな。でも、天下にとどろく悪法だって、作ることは大変だっただろうし実現のために動くことにはたくさん苦労があったよな。いろいろ勉強しただろうし、次は、ああいうことがないように別の分野で力を磨いて、いつかあれもいいものに変えていけよ。」と声をかけていただきました。。

    亡くなられる直前の夏に再会した際、ちょうど、大きな組織変革を担当し、反対にあい、失敗に終わった後だったのですが、「たぶんそのプランは若いなりの感性と直感を生かしたいいものやったんやろうな。なんで上の奴らはこれをやろうといってくれないのだと泣いてるだろうけど、それはまずは君の力不足。プランがよくても、実現の道筋をうまく提案できてないんじゃないか。まだタイミングじゃないのか、実現のための道筋ができていたかをよく考えてみるといい。」と金言をいただきました。。

    本当に世の中を変えようと思うのは、持病を治すのと同じだと思います。簡単に効く特効薬だといろんな人が提案するが実際にはそれほど効果がない。抜本的な治癒には、その人の生活習慣を変えていくこと、つまりは「仕組み」(制度や組織)を変えるということが必要になると思います。「役所に入ったからには課長までやらなきゃ面白くない」先生がよくそう言っていたのは、瞬間風速的な予算をぶち上げるだけの役人、あるいは言いっぱなしの評論家ではなく、「仕組み」の変更までの「実現」を仕掛けていく役人に真になるには、「課長」のような実際にそのプランに責任を持ち、実現に責任を負う立場にならないと完全には近づけないという意味だったのでしょう。。

    先生の教え子として、恥ずかしくない役人として今後も頑張っていきたいと思います。



    原口博光

    東京農業大学客員教授

    (経済産業省資源エネルギー庁資源・燃料部政策課)

                                    

    澤課長の背中

    1.はじめに

     

    2003年4月1日に念願の経済産業省に入省し資源エネルギー庁の資源・燃料部政策課に配属されました。型通りの新人研修やらを済ませていよいよ本格的に「霞ヶ関」での仕事。といっても先輩たちに指示されるままに大量の資料の印刷やコピーの対応等、「官僚たちの夏」の世界に憧れて入省した私の期待とは程遠いこの泥臭い世界の中で、文字通り泥まみれになりながら走り回っている日々でした。

    そんな折に課長が変わるらしい。後任は澤さんという人らしい。環境畑の人らしい。ということぐらいの情報が下つ端の私にも入るぐらいになりました。その時点での課長は北川慎介さん(現三井物産戦略研究所社長)であるところに、この同期にあたる人が後任にいらっしゃるらしい。いまでこそ同期人事も増えてきましたが当時の役人の常識では驚きである上に、油を焚くのを生業とする業界に睨みを利かせる担当の課長が環境部局からやってくる。しかもその人は京都議定書を取りまとめた凄腕らしい。という噂が先行して、業界紙の記者の方々が私なんかにも「新しい課長はどんな人なんだ?」とあたりをつけてくるぐらい、「澤昭裕」という人物がこのポストにやってくることは大変な騒ぎでした。

     

    資源・燃料部という部署は石油、ガス、レアメタル、石炭といった地下資源系のマテリアルを取り扱う部署で私が配属された政策課はこれら担当の各課を取りまとめる部署です。「レアメタル」と書きましたがこれを扱う部署の名前は「鉱物資源課」。今も名称は変わっていません。当時は「レアメタル」という言葉に今ほどの市民権はありませんでしたが、このレアメタルが国際競争のド真ん中に来るということは当時では予想はされておらず政策の優先度としても必ずしも高くありませんでした。むしろ国際問題としてはイラクのフセイン政権倒壊後の中東の混乱の中で上昇を続ける原油価格への対応、イランにあるアザデガン油田の権益獲得に関すること、サハリンでの天然ガス開発等への対応といった事柄の優先順位が高かったです。

     

    国内では、規制緩和の流れの中で2001年に石油業法が廃止され、これを受けた後の石油産業の在り方が議論の中心にあり、この議論に2005年に発効が控えている「京都議定書」に基づいて我が国が掲げた国際公約を実現しつつ石油産業の未来像を描くという大きなお題が突きつけられているような、そんな構図だったと記憶しています。折しも2002年に成立したエネルギー政策基本法に基づいて、初めての「エネルギー基本計画」を作成することを控え、石油産業に関するパートの描きぶりが如何になるのかは石油業界関係者にとっては大きな関心事であったことは間違いありません。


    2.資源・燃料部政策課長時代のこと


    (1)課長が席にいない問題

     

    さて、澤課長の着任。若干の挨拶を済ませられてからは、基本的に席にいない。どこにいるかわからない。各方面とのリレーション構築が澤課長の中での優先度が高く、課内の事務等は総括班長以下に完全にお任せ。起案(要は稟議書)を抱え課長のサインを頂かなければならない総括係の1年生の私にとっては、課長の決裁をもらうタイミングがないというのが一番の困りごとでした。課長が席にいらっしゃらないせいでみんなが困っているみたいなことを私が申し上げたら、だってみんなで考えていいと思っているんだったら、それで進めればいいじゃないかという趣旨のことを仰っていたこと、今でも昨日のことのように思い返します。

     

    澤課長が着任されてのもう1つの大きな変化は、澤課長宛の電話が激増したことです。電話取りも1年生の仕事。中でも「浅野」と名乗る方の電話回数が突出していて、あまりに電話が多いので「どちらの浅野様ですか」と尋ねたら「宮城県の浅野」という答え。そのまま澤課長に取り次いで、「このしつこく電話かけてくる浅野さんって誰ですか?」と尋ねたら「宮城県の浅野知事や」と呆れられたのも今では良き思い出です。澤課長は宮城県で商工労働部の次長を務められたということまで気が回らなかったことに顔から火が出るような思いをしました。

     

    席にいらっしゃる時間がほとんどない澤課長の代わりに、澤課長の電話番号と携帯のメールアドレスが席の横に貼り付けて、必要がある人は直接連絡せよという形で、課長不在問題は解決することになりました。それとて最初はA4サイズの紙にプリントアウトしたものを貼ったら、「あかん、小さすぎる」と言われ、A3サイズに太文字・ゴシックの文字で作り直してやっと合格点をいただくとか。恐れ多くてこの電話とメールに連絡した人はほとんどいないと思います。「課長」というよりは「営業部長」のように飛び回る仕事スタイルを目の前で拝見して、THE・経済産業省の課長というのはこういうものなのかと感嘆しました。


    (2)資料管理への思い

     

    と記すと、活発な活動的な、よく皆さんがご存知の澤課長のイメージと重なると思いますが、資料の管理や保管に関しては厳しくご指導をいただきました。前任の環境政策課で京都議定書が締結されるまでの審議会等の資料を冊子にした資料を取り寄せられて「資料っていうのはこうやって冊子にしたら散逸せずに保管されて、後世に引き継がれていくのだ」という趣旨のことをご指導いただき、石油業法廃止に関する資料、石油公団と鉱物資源機構を統合して独立行政法人石油天然ガス・鉱物資源機構(JOGMEC)に改組するまでの一連資料などを冊子にする役割は私が担わせていただきました。

     

    こういう資料の整理に集中して取り組むのは夜中でなければできないので、深夜に1人でコツコツとやっていましたが、資料を探しながら石油業界に関する大昔の資料などを探り当てたりして、これらを読み耽っているうちに帰宅が明け方になるようなこともしばしばでした。例えば、「橋本(龍太郎)通産大臣(当時)によるサウジアラビア出張」というタイトルの古文書を見つけ出しては食い入るように見入っていました。この時のことをだけを切り出せば上司と部下というよりは、指導教官に指導される学生のような関係であったように思い返されます。

     

    昭和天皇が崩御され御代替わりが起きたときに法令審査委員だった澤課長は部下を国会図書館に走らせて大正天皇が崩御された前後の新聞のアーカイブを取り寄せて、昭和から平成にかけての省庁の対応の参考書にされたエピソードをよく仰っていました。文書管理の大切さや古文書が後世に活用される意義をわかりやすく理解させるための澤課長らしいご説明のされ方でした。「ワシらが昔の新聞を独り占めしていることに後から気づいた他の役所の連中からが頭を下げてうちからコピーを持っていったんや」といかにも関西人らしいオチ付きでこのエピソードを嬉しそうに仰っていた姿も今でも目に浮かびます。

     

    澤課長は在職中からいくつかの著作を残されておられますが、これも澤課長の対外コミュニケーション戦略の一貫であると言明されておられました。イイタイコトをちゃんと書籍にまとめておけば、読んでくれる人ができて、賛成する人も反対する人も出てくる。そこからが勝負の始まりなのだと、そういう趣旨のことをおっしゃっていたと記憶しています。


    (3)エネルギー基本計画の策定

     

    さて、私が澤課長の身近で関わらせていただいたこととしては、史上初の「エネルギー基本計画」の策定に関することが1つ。もう1つが「燃料政策企画室」の設立に関することです。

     

    「エネルギー基本計画」に石油産業に関してどのような記述がされるかは、直近に我が国主導で京都議定書が締結されたという環境下において、脱石油という方向性が大前提にあり、石油業界にとって大きな関心事でした。ましてや政策課長が前環境政策課長となればますますやりにくかったでしょう。澤課長のすごいところは、こういう業界の雰囲気を完全に織り込んで先方の懐に飛び込んでいったことです。

     

    私は石油連盟をはじめとする利害関係団体との折衝のほぼ全てに澤課長の鞄持ちとして同席させていただきました。アポイントを取り、面会録を作成し、また次のアポイントに繋げていく、これが鞄持ちの私に与えられたミッションでした。部の取りまとめ課の課長が自ら現場に出向いてくるわけですから先方も相応の緊張感を持って対応されます。同時に各業界の利害を代表される各種業態団体の会長・幹部の方々は口調こそは丁寧ながらも相応な主張をされてこられます。澤課長がこれらの方々相手に丁々発止のやり取りをする内容は、鬼気迫るものがありました。しかしそれでいて笑顔を絶やさない。根っからの明るい笑顔と軽妙な口調で相手をご自身の魅力で取り込んで味方にしてしまう。これらの交渉の結果は、基本計画では「石油産業の強靭な経営基盤の構築」というタイトルのパラグラフに結実されました。

    私はこの時に澤課長の動向のほとんどに同席させていただいた経験がとても勉強になりました。「役所のダイナミズムを目の前で見た」「すごい刺激的だった」等と、どのような仕事をしているのかと尋ねてくる同期や先輩方に私はこの鞄持ちの経験を触れ回っていました。このように私が嬉々としているという話がどこからか澤課長の耳に届いたらしく、その後、澤課長が東京大学に転じられた際に、学生たちに「教授の鞄持ち」というプログラムをされたとの由。私が「課長の鞄持ち」をさせていただいたことがきっかけだったということは、かなり後になって、別の方から知らされました。


    (4)燃料政策企画室の立ち上げ

     

    「燃料政策企画室」というのは、例えば車の燃費をより一層向上させるためには、石油会社が精製する燃料の品質を改善すべき問題なのか、自動車メーカーのエンジンの開発力を向上させるべき問題なのかを、平場で話ができるようにしようということからはじまったと記憶しています。責任者の初代室長には澤課長が就かれ、資源・燃料部の課長補佐と燃料のユーザーサイドとして自動車課の課長補佐の方が併任されチームが組成されました。

     

    京都議定書で決まった目標を解決するためにはall Japanで向き合うべきであって、個別業界が国内でいがみ合っていても何も生まれることがない。そんな内向きのことにエネルギーを割いていては国際交渉で負けてしまう。どうすれば問題や課題が解決することができるのか。そういうアプローチであらゆる物事に向き合おうとされている澤課長らしいアイデアでした。  

    澤課長は京都議定書の取りまとめを通じて「地球温暖化問題」を国際的に議論するゲームメイキングの枠組みを確立したことについては強い自負を持っておられたと思いますが、一方で京都議定書の内容は我が国にとっては負け戦に近く、次なるゲームメイキングをどのように仕掛けていくかの方に関心を持っておられたように思います。「燃料政策企画室」という枠組みもそのような長期的な視野に基づいて設立されたものに違いありません。


    3.最後に

     

    澤課長は私だけでなく部下や若手に対して本当に暖かく接してくださいました。何かと同席させていただいている機会には、過去に澤課長が取り組まれてきた「大学改革」や「環境問題」に関するお話を色々として下さいました。こんな追悼文を書かなければならないようなことになる未来がこんなにも早く来てしまうことを予想することができていたら、もっと色々なことを根掘り葉掘り伺っておけばよかったと、澤課長が亡くなられてから後悔の日々です。

     

    ずっと憧れて目標として追いかけてきた大きな背中があって、ただその背中は遥か遠く及ばないところにある上に、どんどん先へ先へと進んでいってしまう。必死に追いかけて、追いかけて。せめていつか横に並ぶことができるぐらいにはなりたかった。そのように敬愛する澤課長の背中がある日を境に忽然と姿を消して見えなくなってしまった。澤課長がいなくなってしまった私の喪失感を例えて述べればこのような感じです。  

    澤課長が亡くなられるちょうど半年ぐらい前だったと思います。然る方から「どうも澤くんの体調が思わしくないらしい。元気になったらゴルフでも行こうよと君からもメールぐらいしておくといいよ」と伝えられました。しかし私にはこの知らせがあまりにショック過ぎて結局メールをお送りすることができませんでした。正直に申し上げるとメールでも電話でも病院にでも駆けつけたかったです。でも、その場面を想像するととても耐えられない気持ちになってしまうことがわかっていたので行動に移す勇気を持てませんでした。結局はその後一言も交わすことも許されないままに澤課長をお見送りすることになってしまいました。

     

    役所を飛び出した後は、企業再生の現場に飛び込んで、各方面の問題解決や利害関係の調整の現場に立ち会うことを職業にしている私です。いざ真剣勝負というときなどは、澤課長の鞄持ちをしていたときのことを思い返します。私はいつまでも澤課長の猿真似をしているだけなのです。たった5分でも、いや3分だけでもいいです。お電話ででもさせていただくような機会が許されるのであれば山ほどご相談したいことがあります。私は、澤課長の最後の部下の1人であったことを本当に心から誇りに思っています。

     

    澤課長が経済産業省を退職するというニュースは省内ではとても大きな事件として受け止められました。役所らしく催される省内の会議室での送別会の会場は澤課長の最後の一言に耳を傾けようとする職員の人たちで廊下の外にまで多くの人が溢れかえりました。  

    その後、私が、経済産業省を辞することを相談するためにご自宅に伺ったある雨の日の週末。決して引き留めるわけでもなく「役人というのは課長ぐらいまでやってみないと醍醐味はわからない」という趣旨のアドバイスをいただきました。私の同期たちが課長・室長を務めて活躍している姿を横目に見て、澤課長の仰っていた意味も最近になってやっと少しはわかるようになりました。

     

    安倍元総理が凶弾に倒れ、この友人代表として菅元総理が岡義武教授の山縣有朋に関する著書の一節を引用して「かたりあひて尽くしし人は先立ちぬ今より後の世をいかにせむ」という句を読み上げられました。これには著者である岡義武による続きがあって「これは伊藤(博文)の死を悼んだ彼の歌である。彼はまた身近のひとびとに、伊藤という人間はどこまでも幸運な人間だった。死所をえた点においては自分は武人として羨ましく思う、とも述懐した」と記されています。

     

    澤課長がその後ライフワークとされたエネルギー問題は、当時よりも一層複雑かつ困難性を深めています。これらの問題に考えを巡らす時に、「澤課長だったらどのようにされるだろうか」といつも考えます。私たちはエネルギー問題の偉大な戦略家の1人を失ってしまったまま、この混沌とした世界の中でもがいています。

     

    常に明るく前向きで誰に対しても公平に接せられた澤課長。たしか、あれはゴルフの時だったと思います。「教授になったから先生って呼んだ方がいいですか。澤さんって呼ぶ方がいいですかね。」などとお尋ねしたら「課長のままのええよ」と仰ってましたよね。なので、これからも私の中ではいつまでも澤課長として記憶に刻むことをお許しください。

     

    この文章も何回も、何回も、本当に何回も書いては書き直し、また別の形で書きかえてみたり。そんな試行錯誤をしている間にもう7年近い時間が経過してしまいました。こんな出来の悪い私ですが、どうぞこれからも大所高所から見守っていてください。澤課長、本当にありがとうございました。

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