エピソード

澤昭裕は、1981年(昭和56年)に通商産業省に入省してから退職するまでいろいろな部署を渡り歩きました。東京大学先端科学研究所で仕事をした後、アパレル会社、シンクタンクなど兼任して亡くなるまで様々な仕事をしてきました。その時々で一緒に仕事をしてきた方々から夫の仕事に対するスタンスや考え方、人との接し方などがよくわかるエピソードをよせていただきました。(敬称は略させていただきました)


  • 2011~2015

    見學信一郎

    東京電力

    澤さんとの思い出はつきませんが、特に、東電が福島原子力で大事故を引き起こして、社内で奔走しつつも、時に戦慄が走り、時に途方に暮れていた私に、何度も叱咤激励の電話やメールをいただき支えてくれたことが忘れられません。

    事故以降、澤さんの関心領域が電力政策とりわけ原子力政策に傾注されていったように感じますが、そうした政策論議に加わることは、事故の当事者にて到底その資格にないと気後れしていた私に、「事故の当事者だからこそ、渦中にいるからこそ、得られている知見を提供すべき」と諫められました。実際には私自身よりも、社内の原子力関係者、なかでも現在の原子力立地本部長の姉川を紹介し、胸襟を開いて議論してもらったことが澤さんの論考に役立ったのではないかと思っています。特に、国会事故調での所謂『吉田調書』について論考された産経新聞『正論』での『吉田調書を安全対策の柱にせよ』では、長文の調書を読破されたその探求心に脱帽するとともに、指摘された「8つのヒント」は東電は無論、原子力事業者にとってまさしく正鵠を射るものでありました。なお、電力システム改革に関して提言された一橋ビジネスレビュー2012年春号の論文の一部にて私との議論を反映していただいたことは本当に嬉しかったです。

    新橋の焼鳥屋でまた酒杯を交わしながらもっと教えを請いたかったですよ、澤先生。ご冥福を心よりお祈りします。


    PPTWNS

    三澤株式会社

    澤会長とは色々とお話しさせ頂く機会は定期的にありましたが、何か具体的なアドバイスを頂くというよりは、脳を鍛えるトレーニングを繰り返し与えられていたように思います。私がまだまだ未熟でアドバイスぐらいで何かが変わる様なレベルではなかったので、その様な課題をたくさん与えたのだと思います。

    会長とお会いするといつも高度で難解な質問や課題を与えられましたが、正直質問の意味が良く理解できない事も多かったです。その結果、珍解答と珍プレーを繰り返してしまいよく笑われました。問い掛けに噛み合った事がほとんどなく、人間と猿の会話の様になってしまい、いつも不完全燃焼でモヤモヤします。鍛えられてるのか遊ばれてるのか微妙な感じでしたが、私の固い脳みそにはいい刺激であったと思います。会長のお話は三澤の現場しか知らない私にとっては想像もつかないような次元の内容でしたので、自分が普段考えてる事がとても小さく思え、色々と考えさせられるものがありました。君のやるべきことはそんな小さい事じゃないよ、もっと視野を広げて色んな可能性にチャレンジしなさい、という事だったのかなと勝手に解釈しています。何カ月かに一度お会いする時は、会社のトップとしての威厳で近寄りがたいものがありましたが、ふと私の事を思い出し「元気にやってんのか?」と電話を頂いたことが何度かあります。その時は経営者の厳しい顔ではなく、おじいちゃんが孫を思い出て電話したような様な感じです。当時の思い悩んでいた私にとっては、気にかけて頂いている事がとてもありがたく、ホッとした事を覚えています。澤会長と言えば経歴が偉大で頭脳明晰なイメージがあると思いますが、一社員の成長の為に色んなことを深く考えさせたり、たまに思い出して気にかけたりという様な人情の部分が私には強く残っています。


    斉藤 誠

    一橋大学大学院 経済学研究科 教授

    (Evernote【2016年2月6日】澤昭裕さんとの思い出より転載 )

    1月16日未明に亡くなられた澤さんとは、経済産業省で環境政策課長に就かれていたころからのお付き合いだと思う。当時、電力の先物取引や排出権取引などのエネルギー政策の金融的側面に関する研究会などでご一緒させてもらった。

    しかし、澤さんとより活発に議論するようになったのは、東日本大震災後に原発政策の大幅な見直しが重大な政策課題となってからだと思う。

    澤さんには、2011年6月に脱稿した『原発危機の経済学』(日本評論社)の原稿も、読んでもらい、貴重な意見をいただいた。

    澤さんは、ご自身のゆるぎない政策信念を有している一方で、かなり意見の異なる人たちにも耳を傾ける寛容さを備えていた。今でも、印象深く覚えているのは、前掲書が11年10月に公刊されてしばらくたったころだと思うが、ピースボート代表の吉岡達也さんと私が中学(奈良教育大付属中学)の同級生であることを知った澤さんは、「それでは、3人で飲みませんか」とお酒に誘ってくれた。吉岡さんは、反原発の立場であった。昨年末にメイルを交わした際にも、「3人が一緒に飲んだなんて、世の中の人は絶対に信じてくれないでしょうね」と懐かしげに振り返っておられた。


    より最近では、澤さんに、2014年7月に私が研究代表となっていた「非常時対応に関する法学・経済学合同研究会」に原賠法の見直しについて研究報告をお願いした。澤さんは、「母校ですから」と気軽に応じてくれた。澤さんは、蓼沼学長と同級生である。その時の研究会の議論は、インフォーマルな性格のものだったこともあって、とても活発だった。最近、その研究会の速記録を読み直す機会があったが、当時の議論の濃密さを改めて認識した。

    澤さんの病状が深刻だということは、昨年12月になって、かつての部下の方が教えてくれた。

    澤さんにメイルを出すと、率直に病状を語った返信をいただいた。その際に、「原発事故から5年、福島復興のタブーに挑む」という原稿をWedgeに寄稿したことも言い添えられていた。

    私は、どのような言葉で返信をすればよいのか、しばらくの間、考えることができなかった。

    しかし、澤さんに真摯に答えるには、お見舞いに関わる常套句ではなく、澤さんが力を振り絞って書いた文章を読んで、私の率直な意見を伝えることしかないと思い直した。それこそ、これまでと同様に、「澤さん、それは違うんじゃないの」というような屈託ない調子で私が感じたことを包み隠さず伝えようと思った。

    Wedgeに寄稿された論考は、非常に重要な問題提起に満ちていた。澤さんに伝えた私の拙い感想は、12月24日に自分のウエブにアップしたものとほぼ同じ文章である。病床の澤さんは、私のメモに対して、いくつかの論点にわたってリプライを書いてくれた。

    2月20日に発刊されるWedge 3月号には、病床の澤さんが原子力体制について考察した論説が掲載される。

    澤さんとは、もっともっと議論したかった。

    澤さんが亡くなられたことは、本当に悲しく辛い。

    ご冥福をお祈り申し上げます。


    村尾 信尚

    関西学院大学教授 NEWS ZEROメーンキャスター

    澤さんに最後に会ったのは2015年12月1日、澤さんは奥様と一緒にご自宅にいました。

    私は、関学での特別授業「福島から原発を考える」(16年10〜12月)を澤さんと共に行うため、その内容を打ち合わせに伺ったのです。

    奥様が入れたお茶をいただきながら三人で話をした後、奥様は気を遣われてか愛犬を連れて散歩に出かけられました。


    授業の具体的な内容を私と詰める澤さんは、20年以上の間私に見せてきた澤さんと何の変わりもありませんでした。

    がんを抱え自分の将来に不安を感じながら、福島や日本の将来を信じて静かに語っていた澤さん。

    治療については、「強い薬を使えば命は延びるが、副作用が強すぎて仕事ができない。弱い薬だと命は延びないが、仕事はできる。僕は後者を選ぶ」と私に言いました。

    ヘミングウェイは「勇気」を Grace under pressure と定義したそうですが、あの時澤さんの話を聞きながら、私はこの言葉を思い出していました。


    関学での授業が澤さんの生きる支えの一つにでもなれば、と私は考えていました。
    「福島から原発を考える」は12月17日最後の授業を終えました。

    澤さん、ありがとう! 打合せ通り終わったよ。


    役人時代、通産省にいた澤さんと大蔵省にいた私、仕事でぶつかることもありましたが、よく飲みにも行きました。

    01年、私が「選挙公約は有権者がつくろう」と市民団体を立ち上げたとき、一番頼りにしたのが澤さんでした。

    02年、霞ヶ関を飛び出し、純粋無党派として三重県知事選に立候補したとき、真っ先に相談したのが澤さんでした。

    06年、TVキャスターという仕事を引き受けていいものかどうか、先ず考えを聞きたいと思ったのが澤さんでした。

    澤さんのアドバイスはいつも「やるべきかやめるべきか」ではなく、

    「うまくやるにはどうしたらいいか」でした。


    澤さん、あなたは知において鋭く、情において寛い人でした。

    そして、私の大切な友人でした。

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