エピソード

澤昭裕は、1981年(昭和56年)に通商産業省に入省してから退職するまでいろいろな部署を渡り歩きました。東京大学先端科学研究所で仕事をした後、アパレル会社、シンクタンクなど兼任して亡くなるまで様々な仕事をしてきました。その時々で一緒に仕事をしてきた方々から夫の仕事に対するスタンスや考え方、人との接し方などがよくわかるエピソードをよせていただきました。(敬称は略させていただきました)


  • 2006~2010

    大江紀洋

    元・月刊Wedge編集長

    2016年6月まで在籍した月刊Wedgeで大事にしてきたテーマに「セキュリティ」がある。安全保障、エネルギー安全保障、社会保障。平和な日本では水のように当たり前に思われているこれらのテーマが、実は脆く儚いこと。そして、先人たちの英知と将来へのツケ回しによって成り立っていることを、今日明日の暮らしに手いっぱいの普通のビジネスパーソンに、どうやったら我が事として考えてもらうことができるか。それが、Wedgeの10年間でもっともこだわってきたことなのだが、こう考えるに至ったのは間違いなく澤さんの影響だ。

    頭の片隅には、澤さんがたいていの講演で最初に示していたスライドがあった。それは日本のエネルギー供給の経年変化をとったもので、昔は水力が主、それが火力に変わって、オイルショックを挟んで原子力が登場。2011年の震災の直前に原子力、天然ガス、石炭、水力のバランスが非常に良い状態になったというグラフだった。

    澤さんに初めてお会いしたのは2009年だった。ある方から、「役人出身だが、いま売り出し中の書き手。将来オピニオンリーダーになるはず」と紹介されてのことだった。

    確か場所は21世紀研だったと思うが、ミーティングのスピードに驚いた。挨拶もそこそこに、いま考えていること、各論点のポイント、将来の見立てをスラスラとお話しになり、「こういうテーマでこう書くのはどうだろう?」とあっという間に着地した。編集者としての経験も浅く、温暖化問題もエネルギー問題もあまりわかっていなかった私は、「ありがとうございます……。今日教えていただいたことを持ち帰って、一度頭を整理させてください。すぐ連絡しますので」としか言えなかった。

    折しも鳩山由紀夫首相が国連総会で唐突に「温室効果ガス25%削減」を打ち出した時期。Wedgeではすぐに「CO2 25%削減の問題点が丸ごとわかる」という特集を組んだ(2009年10月20日発売11月号)。澤さんの寄稿「鳩山演説の払った犠牲」を冒頭に置いたところ、読者から「わかりやすい」「そうだったのか」という声がたくさん寄せられた。澤さんからも「Wedgeは反響が大きかったです。永田町、霞が関界隈での普及率は大したものですね」というご感想をいただき、飛び上がるほど嬉しかったのを覚えている。

    澤さんには毎年1度か2度、ご寄稿をいただいたが、いつもやりとりがスムーズで、打ち合わせは1度あるかないか。メールのやりとりは端的かつ明瞭で、原稿をいただいた後に加筆をお願いすると、すぐに対応してくれるし、こちらの意図を完璧に汲んで下さる。とにかく仕事が早く、原稿は締め切りの何日も前に届いた。私の編集作業のほうが遅く、「大江さん、あれはどうなりました?」と連絡が来てしまって、どっちが編集者かわからない恥ずかしい有り様だった。

    澤さんは他の新聞や媒体にも頻繁に執筆されていたし、SNSでも面白い発言を度々なさるので、それへの感想など含めて、しょっちゅうメールでやりとりしていたから、頻繁に心を通わせていたと思うが、ウェットな関係ではなかった。きちんと飲んだのは思い起こせば数回しかなく、それがなんとも不思議な感じがする。

    とてもよく覚えているのは、2012年2月、「G1サミット」という気鋭の財界人や有識者が集う「日本版ダボス会議」と呼ばれる会議に初めて呼ばれたときのことだ。あまりこういう異業種交流会のようなものが得意でない人見知りの私は、朝食会場で気弱にしていたのだが、そんな私を目ざとく見つけた澤さんが、正面に座って、いろんな話を聞かせて下さった。

    2012年5月には、北海道新聞の友人の記者が、「<ポスト原発社会>月刊ビジネス誌「ウェッジ」原発容認貫き異彩」と題して、私にインタビューをしてくれた。北海道ではまったく知られていない雑誌なので、どんな雑誌か説明が要るということで、記者は澤さんにコメントを取っていた。送られてきた仕上がり原稿を見ると、こうなっていた。

    ーー日本経済団体連合会のシンクタンク「21世紀政策研究所」の沢昭裕研究主幹は、「ウェッジは原発事故後、最も早く原発容認論を展開した雑誌。他誌でも単発では載るが、編集方針として容認論を掲げ、継続して特集している雑誌は国内で唯一だろう」と話すーー

    本当に嬉しかった。孤軍奮闘のようなつもりでいたが、見てくれている人は見てくれている。それが、ずっと私の支えになっている。

    コメントへのお礼を澤さんに送ったら、お返事がいかにも澤さんらしかった。記事中の(35)の表記に食いついていた。「大江さんって、そんなに若かったでしたっけ? この記事は誤報では」。

    そんな澤さんとこれからもずっとお仕事をやっていけると思っていた。だから、ご病気のことは本当に驚いた。それを知ってから、お亡くなりになるまでの半年のことは、一生忘れることができないだろう。

    ご遺稿の編集をさせていただいて、編集者としてそれは本当に光栄なことなのだが、そんなことより澤さんに生き返ってきて欲しいと今でも思ってしまう。

    あれから半年が経ちましたが、澤さん、日本はあなたのことを必要としています。

    病床で最後に、澤さんは、周囲にいた私たちに声をかけ、みなが40歳前後であることを確認すると、「そやな、45くらいまでやな、気力体力充実してるからな。そのころにええ仕事せんとアカン」と仰った。その言葉が頭からこびりついて離れない。

    澤さん、頑張ります。天国からぜひ見守っていてください。


    辻垣 卓也

    住友商事株式会社 経営企画部

    2007年4月に経団連21世紀政策研究所でポスト京都議定書の新たな枠組みを提案する気候変動政策プロジェクトのヘッドに澤先生をお迎えして、プロジェクトをスタートさせました。住友商事から出向していた2年間、プロジェクトのコンセプト作り、メンバーや協力者集め、国内外の政策関係者への働きかけなどを先生と一緒に手探りで進めていきました。その後、このプロジェクトは先生がお亡くなりなるまで続き、研究所の看板プロジェクトとなりました。ポスト京都の枠組み作りや日本の電源構成議論に貢献できたことは、5代に渡って引き継がれた歴代担当者の一人として嬉しく、且つ誇りに思っています。

    先生と一緒に仕事をさせて頂き、強く印象に残っているのは、異論を受け入れる柔軟さ、しなやかさです。当時、排出権取引への賛成派と反対派、環境省と経産省という対立構図がありましたが、澤先生は意見が対立する人たちとも正面からぶつかりあうのではなく、異見をリスペクトはする態度で接しておられました。そうした先生の姿勢が、幅広い人脈を構築することに繋がっていたように思います。柔軟且つしなやかに、それでいてぶれることなく実現すべき目標に歩を進めていく先生の姿勢は、2年間の研究所への出向を終えた後も、商社マンとしてビジネスを進めるうえでお手本とさせて頂いています。

    2012年10月にシンガポールへ赴任する前に、澤先生と本プロジェクトの歴代担当者が壮行会を行ってくれました。あれが先生との最後の対面になってしまうとは思ってもみませんでした。ご冥福を心よりお祈りします。


    寺本 将人

    住友商事株式会社 地域総括部(ブラジル住友商事取締役としてサンパウロ駐在中)

    2009年に民主党が政権をとり、「日本のCO2排出量を1990年比25%削減する」といういわゆる「鳩山25%目標」が発表された直後、澤研究主幹ご自身は「非現実的で無責任」と相当に憤慨されていたが、いわゆる「環境派」の人との討論会などでは、そうした憤慨した口調は一切出さず、常に事実とデータをベースに、むしろユーモラスな口調で討論をされていた。BSフジでの福山哲郎氏との討論番組の後、楽屋控え室で、私が澤さんに「対外的な討論会では憤慨した口調を一切出しませんね」と水を向けた際に「大事なことほど穏やかに言う」と言われた。加えて「環境問題は興奮して喋れば喋るほど、胡散臭く聞こえる」と言っておられた。私に対する直接のアドバイスではないが、私の中ではとても貴重なアドバイスを頂いたものとして大事にしている。

    衆議院環境委員長だった民主党(当時)の樽床さんから「EUがEUバブルによって、排出権取引において非常に有利な立場にあるように、日本も日本の強みを活かして何か強い立場になれるような仕組みを考えるべきだ」との話もあり、もともと21研でも同じ問題意識があったので種々検討した結果、澤さんが「二国間クレジットの考えを発表したい」と言われた。二人で素案を作成し、経産省、外務省などに持ち込んだものの「国連のCDM理事会を中心とした考え方になじまない」「日本政府は国連中心でいく」「二国間で勝手に決めても国連で決めた削減目標に組み込めない」と、全く相手にされなかった。21研として論文で発表したり、マスコミに語ったりし続けたものの、全く相手にされない状態が半年近く続き、澤さんも私も非常にストレスが溜まっていたが、そのときに「今は多勢に無勢でも言い続けていれば多勢になるかも知れない。諦めないことが大事」と言われた。加えて「国連の削減目標に組み込まれるかどうかは大事なポイントではあるが、本当に環境のことを考えれば、国連の枠組みに入らなくても、実質的にCO2が減ることが大事なのに、皆、何か勘違いしているのではないか」とも言われていた。

    (写真は21世紀政策研究所としてワシントンに出張し、米国の環境委員会の下院議員と意見交換をした後、下院の環境委員会が開催される会議場で撮影したものです。左から住友商事の吉村ワシントン事務所長、私、澤さん、東京電力の西村ワシントン副所長です。私が初めてのワシントンで興奮していましたら、澤さんが親切にいろいろ案内してくださり、写真を沢山撮って下さいました。休日にはスミソニアン博物館もご一緒しました。懐かしい思い出です)


    岩間 芳仁

    新むつ小川原株式会社(経団連から出向)

    研究主幹の澤昭裕さんは、よく、私に、自分の世界に閉じこもるのではなく、広い視野で一歩先を睨んだ議論をすべき、と言っておられました。言うことを具体的に実行したのが澤昭裕さんの素晴らしい所です。例えば、21世紀政策研究所において、実効ある温暖化対策の提言の検討を行うに当たり、真に効果のある温暖化対策は地球規模で実行しなければならないので、そのための国際枠組みを作るためには、広く国際政治、国際法の視野を持つ必要がある、と強調され、実際に、温暖化問題とはあまり関係のない学者、研究者を検討メンバーに入って頂くよう働きかけてプレゼンテーションをして頂き、提言をとりまとめる、温暖化対策の議論にはあまり縁の無さそうなオピニオンリーダーもCOP会議に巻き込むなど、幅広い視野で温暖化対策が議論されるよう努めておられました。また、プレッジ・アンド・レビューについて、単なるコンセプト、考え方にとどまらず、具体的な手法として整理・提言するとともに、国内政府関係者への説明はもちろん、ハーバード大学のチームを含む国際的広報にも努力され、2015年12月のCOP21の合意のベースを提供されました。

    洞爺湖サミットに向けて温暖化対策の議論が活発に行われ、国内で排出権取引制度導入論が高まろうとしていた際、いち早く澤昭裕さんは、政府・学者が行っている理論的議論だけでなく重要な論点を具体的にイメージできるようにして議論することに心がけておられました。例えば、排出権取引制度導入の地域別・所得階層別の影響を試算し、負担が大きいのは、寒さ・暑さの厳しい地域、所得が低い地域・人等であることを具体的に示され、多くの関係者が引用するなど、政策論争に大きな影響を与えました。

    澤昭裕さんの構想力と実行力が、現在の温暖化対策の基礎を作ったと言っても過言で無いと思います。

    2011年3月の東日本大震災に伴う福島第一原発の事故以降、原子力、再エネなど、エネルギー問題の議論が高まりましたが、澤昭裕さんは、良い点も悪い点もすべてテーブルの上にのせて議論する必要、が口癖で、私の口からも、自然に、澤昭裕さんの口調が私の声で出てくるようになるほどでした。当時、自分の推奨したいエネルギーの長所と、批判するエネルギーの短所だけを強調する論者が非常に多く、総合的議論、本質的課題から逃げる論調が目立ちました。澤昭裕さんだけがエネルギーに問われている問題から逃げずに堂々と議論をしていると言っても良い状況だったと思います。「原子力は必要悪」とか「原子力を殺すのは原子力ムラ自身」とか、かなりはっきりと主張をしておられました。

    エネルギー問題が正しく議論されるよう頑張ると言われたこともあり、「温暖化対策の議論は忘れた」と冗談で言うほど、誰よりも真剣かつ誠実にエネルギー問題を考えておられたと思います。「知らないではすまされない、エネルギーの話」や「精神論ぬきの電力入門」などの著作物は、澤昭裕さんの思いが込められていたと思いますし、エネルギー政策論議が混迷していた時に、希望の光を灯したのが澤昭裕さんだったと思います。

    意見の違う人たちとも交流をされていました。私も、誘われて参加し、会話・議論の仕方を学ばせて頂いたことは、私の貴重な財産にもなっております。ご葬儀の際、澤昭裕さんとは明らかに意見の異なる人たちも多数お見かけし、交流の広さを実感いたしました。


    野秋 盛和

    株式会社コア 元監査役

    私が澤さんと初めてお話したのは、2006年6月 澤さんが株式会社コアの社外監査役に就任された時でした。当時コアは株式上場して間もないころでした。私は社内体制の充実やガバナンスの向上をミッションの一つとしていましたので、人、組織、業務のありかたを改善することなどに仕事の主体が移っていた時期でした。それまでの私の仕事は新しい事業をどう立ち上げて市場開拓していくかという攻めを主としていましたが、守りを担当することになったのでした。上場は組織的成長のひとつの踊り場として捉え、仕事の効率性や有効性、人や組織の成長という視点で考える、言わば企業として相応しい姿、自律的で持続的成長が可能な組織により充実させるという立場で物事を進めることに注力していました。

    澤さんは、経済産業省のお役人であった方と私は認識していましたが、意外なところで細い糸がつながっていた驚きを感じたことがありました。人や組織のお話をしている中で、通産省(当時)の研究機関であった工業技術院電子技術総合研究所(通称電総研、現在の産業総合研究所)が首都圏からつくばに移転する際に、澤さんが移転のための大事なお仕事をされていたということでした。私は、学生のころ永田町にあった電子技術総合研究所の研究室に研究生として2年ほどお世話になっていて、そこは物体の画像認識や生物の視覚情報処理に関する研究室でした。コンピュータを存分に使える環境にいて、コンピュータプログラミングの世界に魅了されていました。永田町で夜を徹したこともあったのです。サンシャイン計画という国家プロジェクトが始まった時期でもありました。石油エネルギー依存から再生可能エネルギーへという動きが始まった時期でした。そんな中、つくば移転が研究者の方々の間で話題となっていました。その後澤さんが移転に関する仕事をされたと聞いて、とても近親感を覚えたものでした。思えば、つくば移転から35年の歳月が流れています。エネルギー政策にも関わった澤さんにとっても感慨無量の想いでいたことでしょう。

    会社の事業計画を練る際に、取締役であった私に澤さんから組織論についてアドバイスをいただいたことがありました。組織体制は組織がどこに向かって何をするから、こう組織するのだという展開をすべきで、既存の形や体制ありきで考えると硬直化するとのご意見でした。まったく同感でしたので、強い味方を得た思いでした。

    私がコアの監査役になった2011年6月には、澤さんはすでに社外監査役としてご活躍中で、ご多忙の中、監査役会では折に触れて貴重なご意見を伺いました。今飛行場からコア本社に向かっています。高速道路が渋滞しているので定刻には少し遅れますが、と携帯に連絡をいただき、キャリーバックを引きながら会議室に入る。会議後のミーティングでは、メールのやりとり、そして次の講演原稿に目を通し、さらに私たちとのミーティングのテーマに適宜コメントを入れる。しかも適切なコメント。なんともすばらしいマルチタスクぶりに大いに感心したものでした。とにかくご多忙というか、超多忙のご様子で、ご自身の会社のことだけでなく、講演や会議で国内のみならず海外にもお出かけでした。福島の事故もあり、国を挙げて電力の在り方の議論が盛んになっていました。澤さんはこの分野で卓越した見識をおもちで、テレビ出演の機会も増えていました。会社でお会いする澤さんとテレビで発言される澤さんにちっとも変わりがなく、ずばっと持論を展開される姿をよく拝見したものでした。Facebookの招待を受けたのもこのころでした。澤さんのご活躍ぶりが、一企業の監査役の側面だけでなく、鮮明にかつ幅広く認識できたのでした。

    しかし、残念なことが起こりました。本当にまさかのことでした。私の監査役任期が終了し顧問として半年勤めいよいよ退任間際の時です。澤さんの訃報に接したのでした。

    澤さん、病床でのご様子を奥様からお知らせいただきましたよ。残した仕事に打ち込んでいる様子もよくわかりました。冥界からまだまだ言いたいことがあると言っているに違いありません。ご逝去から1年にならんとする今、ここにあらためてご冥福をお祈りします。


    杉坂 千恵

    三澤株式会社 アリュメット事業部

    初めてお会いしました時にお話させていただいた事が今でも印象に深く残っています。

    それは三澤に就任される以前に先代の告別式で挨拶をさせていただいた後、少しお話をさせていただ時の事です。

    以前から先代や相談役には会長についてどのような方か聞いていましたので興味もありました。

    東大で教鞭をとっておられる時期でしたので、どういった事を教えているのですか?と聞きましたら、難しくおっしゃらずにわかりやすく話して下さいました。

    「例えば、身近な商店街やお店をリサーチして、流行っていない、売れていないような店はどうしたら売れるようになるか分析したり、自分だったらどうするかという事や」

    と関西弁で気さくに話して下さいました。

    思い描いていた人物像のすっごく頭の良い、難しいそうな方では・・・とイメージが吹っ飛んだ瞬間でした。

    経済的に良くなるにはどんな所でも物が売れる・・・つまり生産や仕入れた物が消費されるという事だとあらためて思い知りました。

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